Diaryの日記帳

映画、アニメの感想を中心に掲載します。

ノートルダムの鐘「さかさま祭りを知ってるか?」

でも、遠坂さんも寝過ごすことあるんですね。

奈須きのこFate/stay night




ディズニーってこういうの作るんだ。
「南部の唄」とか「空軍力の勝利」なんてものを作っていた時期もあったと知っている今の僕にとっては、そんなに驚くようなことではないけれど。
陸上の授業が終わって体育倉庫に学校の備品であるランシューを返しに行くと、クラスの優等生が高いところに置かれているランシューの収納ケースに届かなくて、うーん、うーんと背伸びをしている。
そんな場面を目撃してしまった感覚。
ノートルダムの鐘」という作品の存在を知ったのは、高校生の頃だったと思う。
ディズニーの都市伝説とか調べていて、いろいろな記事を渡り歩いているうちに遭遇したのだ。

生まれも育ちも容姿にも恵まれず、しまいには物語上で恋に落ちたヒロインとも結ばれない。

それだけでレンタル屋に足を向ける理由としては充分だった。
見た当時どんなことを思ったかはまるで覚えていない。
しかし、お祭りのシーンが強く印象に残っていて「トプシーターヴィーって知ってる?醜いヤツが王様らしいよ」と友人に言っていたことは覚えている。
そんな痛いエピソードつきの映画「ノートルダムの鐘」を最近見直した。




三体の石像

この映画には個性的な三体の石像が登場する。

温厚かつ涙もろいココリコ田中似のヴィクトル。

小さくて太っちょというヴィクトルとは真逆の体型で、ひょうきんな性格のユーゴ。

しっかり者で、三体の石像のまとめ役であるラヴァーン。

ヴィクトルとユーゴという命名は、レミゼラブルでも有名な原作者のヴィクトル・ユゴーに由来する。
この三体の石像がいることで、映画はどうにか明るさを保つことができている。
いなかったらダメというわけではない。
ただディズニー映画という子供も楽しめるコンテンツとしては、どうなのだろうと感じてしまう。
恐らく映画を見ている子供は、寝るか、泣くか、別の部屋に行ってYouTubeを見出すのではないだろうか。
始まってしばらくは歌っているシーンが続くからまだいい。
しかし、その歌ですら内容は暗い。

カジモドがフロローの手に渡るまでの経緯を、クロパンがパリの子供たちに歌に乗せて語りかける「ノートルダムの鐘」。

ノートルダムの鐘

ノートルダムの鐘

  • 光枝明彦, 佐川守正 & 村俊英
  • サウンドトラック
  • ¥255
music.apple.com

いつも見下ろしているだけの世界への思いをカジモドが歌う「僕の願い」。
僕の願い

僕の願い

music.apple.com

エトセトラ。

それらは壮大だけど、ポップな感じは一切ない。
カジモドと似た経歴を持つラプンツェルとは比べ物にならないほどに。

「トプシーターヴィー」は明るいけれど、その明るさは王様として選ばれたカジモドの心中とは乖離している。
そのコントラストを見せつけられた視聴者は、高揚している自分の気持ちにどこか罪悪感を抱くことになる。
トプシー・ターヴィー

トプシー・ターヴィー

music.apple.com

そんな雰囲気の中で、三体の石像は場面を明るくするのに大きく貢献している。
お祭りに行きたそうなカジモドにちょっとだけ大聖堂を抜け出すことを提案し、カジモドがエスメラルダに追い回されていたら「色男」とおちょくり、パリの街を包んでいる炎でウインナーを焼く。

ディズニー映画では、主要人物と可愛らしい何かが近くにいることが多い。
ラプンツェルパスカル
アラジンのアブー。
アナ雪のオラフ。
画面に映るだけで暗いシーンを明るくすることのできる魔法のマスコット。
それがノートルダムの鐘では、ヴィクトル、ユーゴ、ラヴァーンなのだ。

石像たちがいなかったら、燃えるパリはもっと恐ろしいものとして感じられただろう。


「僕の願い」と「陽射しの中へ」

僕はノートルダムの鐘の舞台版を二回観たことがある。
その結果、映画版を観ると多少の物足りなさを感じるようになってしまった。
曲自体の数が少ないというのもあるし、同じ曲でも短かったりする。
加えて歌詞も違うから、ちょっと混乱する。
来るぞ!と思った言葉が来ない。
アナ雪でエルサが「ありのままで」を全然違う歌詞で歌っているのを想像してみて欲しい。
翻訳の違いによるものだから、ニュアンスは大体一緒だ。
ただ舞台版の方が語感はいいように感じる。
映画版は若干字余り感がある。
その違いを「Out There」という曲で見ていく。

映画版「僕の願い」:
youtu.be

舞台版「陽射しの中へ」:
youtu.be

僕は断然舞台版の方が好き。
まず映画版は曲名からして弱い。
「僕の願い」という曲名を、僕はよく忘れてしまう。
舞台版の「陽射しの中へ」という曲名を忘れたことは一度もないのに。
この差は何によって生じているのか。
歌詞の中で曲名が使われているかどうかに僕はあると思う。
「僕の願い」には、歌詞の中にその曲名が一切登場しない。
それに対して「陽射しの中へ」ではその言葉が二度も登場する。
加えて、同じメロディの箇所で登場するためより印象は強い。
端的に言うと、映画版の歌詞でいう「愛してくれるなら」「もう何もいらない」が「陽射しの中へ」に置き換わる。
映画版を観たことがある方はお気づきかと思うが、これは「Out There」で一番盛り上がるところだ。

カジモドが一人で歌う前に、フロローとの掛け合いがあるのだが、それも舞台版の方が僕は好きだ。

映画版「僕の願い」

カジモド:よくしてくださっているのに……お許しを。
フロロー:よろしい。忘れてはならんぞ、ここだけが安全なんだ

舞台版「陽射しの中へ」

フロロー:ここだけが安全な聖域、お前のサンクチュアリだ。
カジモド:僕の、サンクチュアリ……。

「聖域」はこの物語において重要な言葉だ。
大聖堂のてっぺんで叫ぶわけだし。
「Out There」というノートルダムの鐘を代表する曲の中で、その言葉が登場する方が好ましいように僕は感じる。
それに、翻訳前の原語版でも「sanctuary」という言葉は使われている。

言語版「Out There」

フロロー:Remember, Quasimodo. This is your sanctuary
カジモド:My sanctuary


言語版に忠実に行くなら「聖域」と訳すべきであろう。
「Out There」以外の曲もそういったことがよく考慮されているから、思わず口ずさむとしたら僕は舞台版の方が自然と出てしまう。
映画版か舞台版のどちらか一方しか聴いたことがないという人は、これを機に聴き比べをしてみたら面白いかもしれない。
Apple Music に登録している方は全て聴くことが可能だ。

映画版:

music.apple.com

舞台版:

music.apple.com

原語版:

music.apple.com




ちょっと、疲れた

ディズニー映画に登場する悪役は人気が高い。
「ディズニー・ヴィランズ」というブランドまで存在していて商品展開までされちゃうほどに。
アラジンのジャファーが僕は一番だが、ノートルダムの鐘に登場するフロローもかなり好きな方に入る。
安心して憎めるし、そうかと思えば可愛げもある。
印象的なのは「罪の炎」を熱唱した翌朝、頭を抱えながらに馬車の荷台から顔を出すシーン。

フィーバス:おはようございます。……ご気分は?
フロロー:……ちょっと、疲れた。
フィーバス:そうですか。

間抜けだ。
ジャファーの「ないーーーーー!!」に引けを取らない位好き。
ディズニーのヴィランズはやっぱこうでなければ。