Diaryの日記帳

映画、アニメの感想を中心に掲載します。

書かれるか、書かれないか、それが問題だ。

恐ろしかった。
自分が母を嫌っているのではないか、という可能性が。
女手ひとつで自分をここまで育て上げてくれた母を、自分が心のどこかで疎ましく思っているという、そのかすかな可能性が。

伊藤計劃虐殺器官

日記を書いていて、ふとあることに僕が全く触れていないことに気がついた。
あること、というより、ある人とのことに。
その日は既に、結構な文字数を書いていた。
大切な人であるはずなのに、その人との間に問題が色々と起きているというのに、全く触れないでいるなんて。
ただ、日記の中で触れていないからといって、必ずしも気にかけていないというわけでもない。
敢えて書くのを避けてしまうようなことだってある。

自分の抱いている思いを書いてしまうと、なんらかの影響を自分が受けてしまう気がしたり

そこまで思わないにしても、文字として書き起こされた自分が、あまりにも気持ち悪くて見たくないと感じたり

或いは、意識していることをなかったことにしたくて、書かないという選択をすることもあるかもしれない

日記というのは書かれていることが全てではない。
書かれていないことにも、なんらかの意図が働いている場合もある。
そして、その意図を拾うことが出来るのは、日記の執筆者たる「私」を除いて、他にはいないのである。

僕は日記を読み返しながら考える。
敢えて僕は書かなかったのか、そうでなかったのか。
答えはすぐに分かった。
僕は何にも考えてなんかいなかった。
僕は薄情なやつだ。
そんな風に自己嫌悪したのが、一週間前くらいの話。
Twitterの過去の投稿を見れば分かるんだけど、ポエムっぽいことばかりつぶやいているから、見たくない。
あれは使い捨ての言葉なんです。


昨日、映画を観た帰り道に、そんなことを考えていた自分を振り返っていた。
すると、一週間前にはいなかった新しい自分が、ある疑問を投げかけてきた。

それで?

自己嫌悪した。
うん。
それで?
その後何があったの?

何もなかった。
いや、あった。
もっと悪い方向に流れた。
でも、未だに僕はそれについて深く考えたり、どうこうしようと奔走したりしていない。
それって結局、

ただメンドくさかっただけじゃないの?

薄情になってしまうことは誰にだってあると思う。
肝心なのは、薄情である自分に気づき、その後にどんな行動をとったかではなかろうか。
その時になって、真の意味での「薄情」が決まるのではなかろうか。
僕は何もしないことを選択した。
「僕は薄情なやつだ」
いつか放った言葉を、ひとりぼっちで歩く僕は呟いた。
同じ言葉であるはずなのに、以前よりも重く感じた。

ブログを書いている今も、何も行動を起こさずそのままにしている。
もう面倒臭い。
もう嫌だ。
薄情なやつでいいや。
妥協以外の何ものでもないけど、なんだか疲れたんです。



追伸

前回のブログを読んで、誤字があるよって指摘してくれた方、本当にありがとうございます。
恥ずかしくもあったけど、読んでくれている人がいるって思うと、なんだか救われた気がしました。