Diaryの日記帳

映画、アニメの感想を中心に掲載します。

見つけたよ。

誰かに見つけてもらえるって、すごくしあわせなことだね

幾原邦彦×高橋慶『輪るピングドラム

あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない」というアニメが泣けるらしい。
そのアニメの名を初めて聞いてから、随分と時が経ったように感じる。
まだ高1だったような。
クラスメイトのアニヲタで構成されらLINEグループがあって、T君が好きと言っていた気がする。
(ちょっと気になってさっきそのLINEグループを確認したら、メンバーは僕一人になっていた)
最近ある人物に、テレビで放送されるからと画像まで送られて、ようやく僕は重い腰をあげたのだった。


事前に知っていた情報として、下記のようなものがあげられる。

めんまという白い髪の女の子が出る。
めんまは死ぬ。
・かくれんぼをする。
・アナルというアダ名の女の子がいるらしい。
・ロケットが飛ぶ。
・secret base

観終わって思うのは、劇場版はテレビ版を観た人向けの作品だということ。
半分くらいは

めんまいつ死ぬの?
なんで手紙書いてるの?
今語られているのって、いつ時点の話?

といった疑問を解消するのに費やされていた気がする。
今もう一度観直したら大分落ち着いて観ることができそう。
でも、できればテレビ版を観て、めんまがいる間のストーリーをゆっくり味わった上で、劇場版をもう一度観たいな。
それがいつになるか分からないけど。

めんまからの手紙を開いた途端 secret base が流れるのベタ過ぎて萎える。
最初はそう思ってたんだけど、めんまの瞳のハイライトがくるくるして"見つけられる"ところで、流石にやられました。

まだ ほんの17歳

馬鹿だな、おしまいじゃないよ。
むしろ、そこから始まるんだって賢治は言いたいんだ

幾原邦彦×高橋慶『輪るピングドラム

とんとんと僕の机の隅を、誰かが指先で叩く。
ざわざわと僕の心が揺れる。
ゆっくりと顔を上げると、そこにいたのは予想した通りの人物だった。

この前のテスト、どうだった

もう話せないと思っていた。
友達ではなくなったと思っていた。
でも、こうして僕はまた、話しかけられている。

全然ダメだったよ

終わったはずの何かが、違う形で動き出す。
少し寂しくもあるけれど、何もなくなるよりかはいい。



屋根裏部屋をゆっくりと覗くと、そこには3人の男がいた。
コミカルなイントロと共に、老いた彼らに、若かりし頃の面影が重なる。
ソフィの父親かもしれない人たち。
その中には、一緒に人生を歩もうとした彼もいる。
感情を爆発させ、ドナは歌う。
力強く、扇状的に。


Look at me now, will I ever learn?
私を見て、この私 懲りてないの?

I don't know how but I suddenly lose control
どうしたの 急にドギマギして

There's a fire within my soul
心の奥で炎が燃え上がる


しわくちゃだし、声はガラガラ。
それでも、この曲を歌っている時のドナは誰よりも輝いている。
マンマ・ミーア!全編を通して、僕が一番好きな場面だ。

誰が父親か分からないまま子を宿し、産まれたソフィはもうすぐ結婚する。
この島で一人ホテルを経営し、貧しい中でどうにか食いつないできた。
そこまで壮絶な人生を僕は送っていないけど、映画館というエンパシーボックスの中で、僕の心はドナにデプロイされていた。
これから何かが起こる気がする。
それも、明るい何かが。
ドナと一緒に、僕の心も舞い上がる。



最近、マンマ・ミーア!の続編にあたる「マンマ・ミーア!ヒア・ウィー・ゴー」を観た。

感想はこちら↓
https://philip-runner.hatenablog.com/entry/2019/09/23/193943

その時も思ったんだけど、この作品は映画が終わった後の、エンドクレジットも最高なんです。
なんというか、ひとことで例えるなら「夢の中の音楽祭」。
観れば分かると思うけれど、色々とありえないんです(特にヒア・ウィー・ゴーは)。
だから物語には絡んでこない。
でも、作品には密に絡んでいる。
涙腺が決壊するのは、全てが終わった後ってなんだか不思議。

ハハッ!

エリック・ホッファは港湾労働者でしたよ。
あなたの好きなフランツ・カフカは小役人だった。
職業に貴賎なし、と言いますが、同時に思索は職業を選ばないのです

伊藤計劃虐殺器官

あれはいつだったか。
確か小学生の頃の話だ。
僕は初めて東京に行くことになった。
どういう経緯でそういうことになったかは覚えていない。
ディズニーシーが丁度5周年の時だった。
何かのグッズにそう書かれていたから覚えている。
ディズニーランドの35周年の時の盛り上がりを考えると、至るところに「5」という数字が掲げられていたはずなのに。
10年以上も前の話だから覚えていなくても仕方ないんだけど、書く前はもっと色々と覚えているつもりでいたから、今こうして書いている間にも、僕の感情を「憂鬱」の二文字が満たしていく。



というわけで、松岡圭介さんの『ミッキーマウスの憂鬱』を読み終えました。

21歳の後藤大輔は、ディズニーランドの準社員として働くことになる。
夢溢れる職場、と思いきや、そこにあったのは、立場による軋轢やエゴに満ち溢れた、どうしようもないほどの現実世界。
そんな世界が、ある一つの出来事によって大きく揺るがされる。



準社員
つまり派遣。
僕も似たような境遇で働いているから、作品中に登場する準社員の気持ちが、なんとなく分かる気がする。

作品中にはビックリするほどクズな正社員の方々が登場する。
悪いことは全て準社員のせいにして、都合の良いことは正社員の手柄にすり替えようとする。
フィクションによくありがちな、上層部が腐っていて、それにより主人公サイドが様々な被害を受けるパターン。
でも、こういう場合、上層部のてっぺんに近いほんの一握りの人たちは、大体いい人たち。
それは、ミッキーマウスの憂鬱という作品の中でも同じであり、救いだった。

準社員として、常につきまとう劣等感。
うちの部署に差別はないけれど、その思いを拭い去ることはできない。
可哀想だとは思わない。
僕に学歴はないし、頭の回転も遅いし、努力も足りていない。
コミュニケーション能力だって皆無だ。

これからも、僕は劣等感から逃れることはできない。
今の会社にいる限り、それはずっとつきまとう。
でも、差別することなく、時に叱りながらも、優しく教えてくれるプロパーでいっぱいのこの環境って、実はとても恵まれているのではないだろうか。
ネットで、屈辱的な扱いを受けたという話をちょくちょく聞くことがある。
それが真実かは知らないけれど、嘘と言い切ることもできない。
そんな世界があっても全然不思議だとは思わないし、現に、自分より立場の低い人がいたらいじめずにはいられないクズを、僕は何人も見てきた。

この作品を読んで、こんなのありえっこないと思った方もいるかもしれない。
僕がもし、差別されるような環境にいたら、綺麗事で済ませてるんじゃねぇと憤るか、こんな職場が良かったなと羨望するかのどちらかだろう。
恵まれた環境にいる僕は何を思うかというと、ただ、良かったと思うだけ、では終わらすまい。
これだけの人数がいて、今のような素晴らしい環境にあるということは、奇跡に近いことだと私は思うのだ。

人間関係っていうのは、割とあっさり崩れる。
ちょっとした摩擦で傷を負い、気がつけば燃え尽きた山に残った木々のように、ボロボロになる。
それはまだマシな方で、ただの灰と化していることだってある。
この緑色の山は、いつからあるのだろう。 枯らしたくない。
この世界を壊したくない。
若木の僕は、まだそこまでの影響力を持ってないけれど、能力に関係なく、時は残酷にも僕を一本の立派な木に仕上げようとしている。

綺麗な木になりたい

いや、ならないと。
なりたいって言うほど、僕が若木でなくなる日は遠くない。

ひとりはみんなのために

One for all, All for one.

アレクサンドル・デュマ『三銃士』

※注意 この記事には、「天気の子」に関する重大なネタバレが含まれます。











わがままでもいいじゃないか。
僕らが普段気にしている周りと、これからどれだけ一緒にやっていくというのだ。
肩を並べて話して、笑って、寝食を共にしたりするのは、その周り中でどれだけだというのだ。
そのひとたちだけでいいじゃないか。
それ以外はどうでもいいじゃないか。
いっぱいお金があっても、時間があっても、いなかったら困る人たち。
気にかけるのは、そんな人たちだけでいいじゃないか。

自分勝手だと思うかもしれないけれど、それが僕の考え方だ。
もちろん、仕事になると話は別だけど、プライベートはそのくらい思い切ってしまってもいいと考えている。
でなければやってられないから。
気にする「周り」が広くなればなるほど息苦しくなって、やがて窒息死してしまう。

みんなのためではなく、大切な誰かのために生きたい

そんな風に僕は思う。
僕が自分を「僕」と呼称するためには、絶対的に誰かが必要だから。
この文字たちだって、誰の目にも留まらなければ「僕は」だなんて主張することはないのだ。
だから、自分のために生きる、だなんてことは言えない。
僕が名前を呼びたい誰かと、僕の名前を呼んでくれる誰かが、僕にとっての世界であり、それ以外の人たちは、それ以外という形でしか世界に存在しない。



大切な誰かか、人類にとっての最大利益か。

帆高が鳥居を一心不乱に目指していた時、その選択を迫られている意識があったかどうかは分からない。
多分、なかったと思う。
陽菜にもう一度会いたい。
純粋なその思いだけが、彼の足を動かしたんだろう。
その結果、世界はすっかりと姿を変え、空からは絶えず雨が降り続ける。

誰かが犠牲になって世界が救われる

そんな物語よりも、

愛する誰かのために世界をぶっ壊す

方が好きだな。
それは僕の思想に基づいた好みだった。
「宗教」というと難しく感じてしまうけれど、友達との普段の会話でやりとりされるような、好みのアニメや映画、音楽が、その人にとっての宗教なんだろうな、と僕は思う。

「ソロモンの偽証」感想

人間には物語が必要なのです。
血湧き、肉踊る物語がね。

伊藤計劃×円城塔屍者の帝国

僕は友達とラーメンをすすっていた。
話は仕事のことが中心だった。
お互いの状況報告がひと通り終わり、少し間が空く。
今だ、と僕は思った。
ずっと話したいことが僕にはあった。
それは、仕事のことなんかより、ずっとずっと僕の心を躍らせてくれるものだった。

ソロモンの偽証、読んだよ。

彼は驚いた。
ソロモンの偽証は、以前別の場所で読んでいる時に、彼が読んだと語っていた小説だ。
作者が僕の大好きな宮部みゆきさんであったため興味が湧き、手に取ったのだ。
彼が驚いたのにはもちろん理由があり、ソロモンの偽証はとにかく長いのだ。
ブレイブ・ストーリーの2倍近くはあるだろう。
それを話題にあがった週数間後に「読んだ」と言われたら、驚くのも無理はない。
だから、彼を落ち着かせるためにも「全部ではなく第一部だけだよ」という言葉をすぐに添えた。
驚く反応が見れたから、僕はもうそれで充分満足だった。
その小説について、お互いの感想を語り合ったところで(僕の知らない領域に彼が踏み込まないよう慎重になりながら)、僕はある疑問を口にする。

最初に出てきたおじさん、それ以降一切出てこないね

ソロモンの偽証は、雪の降るクリスマスイブの夜に、ひとりの老人が電話ボックスで受話器を握るひとりの学生を見かけるところから始まる。
そして、第一部の中ではそれ以降、その老人が登場することはなかった。
補足しておくと、ソロモンの偽証は三部で構成されている。
だから、三分の一は読み終えているのだ。
そこまで行って登場しないということは、一度きりの使い捨ての登場人物なのか、はたまたそうではないのか、少し気になっていた。
この気持ち、分かってくれるかな。
そういう意図だったのだが、彼から返ってきたのは

え、そんなやついたっけ?

いたよ!
と、思わず僕は声を張り上げる。
僕が補足で説明すると、彼はようやく「ああ、はい、はい」と得心がいったようき頷き、その後ニヤニヤが顔に広がっていった。

まあ、この後をお楽しみください。

だよね。

この場で、その「後」について語り出そうものなら、どんな手段を尽くしてでも止める気でいたけど。
とにかく、後の方にニヤニヤしちゃうくらい愉快な展開が待っている。
それが分かっただけでも、僕には充分だった。

その疑問も、全て読み終えた今となっては解決している。
どこで出てきたかこの場で言わないけれど、おお、と思わせるくらいには驚いてしまうタイミングだった。
そもそも、僕はこのソロモンの偽証という本を、どんな話なのか一切知らない状態で読んでいた。
一般的に、ある本を読む時に、その本についてどの程度知っていることが普通なのか分からないけれど、裏表紙に書いてあるあらすじさえ目を通さずに、僕は読み始めたのだ。
だから、物語の展開は正直驚きの連続だった。
特に、第一部を読み終えた時は、それが大きかった。
まさか、学校内で、学生だけで裁判をするだなんて、全く予想していなかったのだから。
確かに、第一部「事件」第二部「決意」第三部「法廷」とはなっているけども、そうだけども、ずっと何かの比喩だと考えていた。
それが分かってから、第三部で開廷することが待ち遠しくてたまらなかった。
そして、第三部は待ち遠しいと思っていた自分が正解だと思える位、いやそれ以上に、面白かった。
まるで、リアルタイムに裁判を傍聴しているかのような感覚
初日からぶっ飛ばしてる。
それが最終日まで続く。
最初から最後までクライマックスだぜ!、とは正にこのこと。
この作品は、とても熱い。
多くのジャンプ漫画がそうであるように。
といっても、筆者は家庭教師ヒットマンREBORN!くらいしか、まともに読んだことはないけれど。
でも、ツナと白蘭が背中合わせで共通の敵に対峙した時、変な声を出さずにいられる人はいないでしょ?

最後に、この作品の主人公について触れたいと思う。
読み終わった人に、この本の主人公が誰であったか尋ねたら、実は色々な答えが出るのではと感じている。
多くの人は「藤野涼子」と答えそうだけど、僕にとって彼女は、物語をテンポよく進める上で、作者と読者、両者にとって都合の良い存在でしかなかったように映るのだ。

ソロモンの偽証の主人公は藤野涼子

というのは

ファイナルファンタジー零式の主人公はエース

と、答えるのに似ている。
俗的に言うなら、読者にとっての「推し」が、この作品の主人公なのかもしれない。
次、この本を紹介してくれた彼に会ったら、彼にとっての主人公が誰なのか聞いてみようと思っている。

以上、宮部みゆきさんの『ソロモンの偽証』の感想でした。

「天気の子」感想

大した神経はあんたのほうさ、トァン。
俺は同僚としてのあんたを知っている。
いま世界中で起きている大混乱なんて気にしちゃいないさ。

伊藤計劃『<harmony/>』

僕は雨が好きだ。
傘に当たる雨の音は心地良いし、夜になると、コンクリートで出来た道路は巨大な鏡と化し、車のライトや信号機の光を反射する。
にぎやかで、きらびやか。
加えて、雨は記憶を揺らす。
道端にできた水たまりに波紋が広がるように、頭の中で圧縮されいた過去の記憶が、次々に展開されてゆく。
目を閉じて開けば、あの頃に戻れそうな気がする。
そんなことは無理だけど、いつもより思い出の近くにいることは悪い気分ではない。
戻れなくても、忘れ去られることなく頭のどこかにあるということが、僕にとっては嬉しい。

天気って不思議だ。
ただの空模様に、こんなにも気持ちを動かされてしまう。

主人公の帆高はそんなことを思った。
同じようなことを、僕は雨が降るたびに考えていた。

というわけで、新海誠監督最新作「天気の子」ようやく観てきました。
正直「君の名は。」より好き。
君の名は。」はRADWIMPSのMVを観たという感じだったけれど、「天気の子」はそういう印象を受けなかった。
そこまで音楽の主張が激しくない。

結構思い切ったことをした映画だな、とも思う。
上映中は終始ニヤニヤしていた。

うふふ......Diaryってこういうの好きなんでしょ?

そうです。
大好きです。
ありがとうございます。

特に僕は、結末が好き。
僕がどんな話を好きなのか、どうしてその作品が好きなのか、ようやく分かった気がする。

書かれるか、書かれないか、それが問題だ。

恐ろしかった。
自分が母を嫌っているのではないか、という可能性が。
女手ひとつで自分をここまで育て上げてくれた母を、自分が心のどこかで疎ましく思っているという、そのかすかな可能性が。

伊藤計劃虐殺器官

日記を書いていて、ふとあることに僕が全く触れていないことに気がついた。
あること、というより、ある人とのことに。
その日は既に、結構な文字数を書いていた。
大切な人であるはずなのに、その人との間に問題が色々と起きているというのに、全く触れないでいるなんて。
ただ、日記の中で触れていないからといって、必ずしも気にかけていないというわけでもない。
敢えて書くのを避けてしまうようなことだってある。

自分の抱いている思いを書いてしまうと、なんらかの影響を自分が受けてしまう気がしたり

そこまで思わないにしても、文字として書き起こされた自分が、あまりにも気持ち悪くて見たくないと感じたり

或いは、意識していることをなかったことにしたくて、書かないという選択をすることもあるかもしれない

日記というのは書かれていることが全てではない。
書かれていないことにも、なんらかの意図が働いている場合もある。
そして、その意図を拾うことが出来るのは、日記の執筆者たる「私」を除いて、他にはいないのである。

僕は日記を読み返しながら考える。
敢えて僕は書かなかったのか、そうでなかったのか。
答えはすぐに分かった。
僕は何にも考えてなんかいなかった。
僕は薄情なやつだ。
そんな風に自己嫌悪したのが、一週間前くらいの話。
Twitterの過去の投稿を見れば分かるんだけど、ポエムっぽいことばかりつぶやいているから、見たくない。
あれは使い捨ての言葉なんです。


昨日、映画を観た帰り道に、そんなことを考えていた自分を振り返っていた。
すると、一週間前にはいなかった新しい自分が、ある疑問を投げかけてきた。

それで?

自己嫌悪した。
うん。
それで?
その後何があったの?

何もなかった。
いや、あった。
もっと悪い方向に流れた。
でも、未だに僕はそれについて深く考えたり、どうこうしようと奔走したりしていない。
それって結局、

ただメンドくさかっただけじゃないの?

薄情になってしまうことは誰にだってあると思う。
肝心なのは、薄情である自分に気づき、その後にどんな行動をとったかではなかろうか。
その時になって、真の意味での「薄情」が決まるのではなかろうか。
僕は何もしないことを選択した。
「僕は薄情なやつだ」
いつか放った言葉を、ひとりぼっちで歩く僕は呟いた。
同じ言葉であるはずなのに、以前よりも重く感じた。

ブログを書いている今も、何も行動を起こさずそのままにしている。
もう面倒臭い。
もう嫌だ。
薄情なやつでいいや。
妥協以外の何ものでもないけど、なんだか疲れたんです。



追伸

前回のブログを読んで、誤字があるよって指摘してくれた方、本当にありがとうございます。
恥ずかしくもあったけど、読んでくれている人がいるって思うと、なんだか救われた気がしました。